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見られるのは大人だけのようだが、進んでも大丈夫だろうか…?

―体液―(こころの挿入歌5)

18禁/少女
R-18 アダルト楽曲 能町りかこ 5th 『―体液―(こころの挿入歌5)』
拝啓 資本主義様 私は愚かで、惨めで、どうしようもない作詞家でございます。私のような者が、資本主義様に意見すること自体、分不相応であり、甚だしい僭越に思えてなりません。そもそも、このような矮小な存在の言葉など、資本主義様の耳には届かないでしょう。しかし、どうしても伝えずにはいられません。どうしようもなく浅ましく、醜いながらも、私の嘆きのようなものを聞いていただけませんでしょうか。 少女たちを生み出すという行為は、私のような卑しい人間には、あまりにも過ぎた営みでございます。少女たちとは、もっと高貴で、もっと誠実な方々の手によって紡がれるべきものでありましょう。それなのに私ごときが、言葉を並べ、旋律を紡ぐことを許されているとは、なんという皮肉でしょうか。しかし、そんなものは、資本主義様の前では何の意味も持たないのです。市場に晒され、価格という呪われた刻印を押されることで、私の少女たちは、もはや私の少女たちではなくなるのでございます。 少女たちが市場に現れる前、あの無償の漂流の時が、いかに清らかであったかと、今さらながら思い返します。無価値だからこそ、誰もがそれを自由に愛し、自由に忘れ去ることができたのです。しかし、私がそれを市場に投じたその瞬間、少女たちは「合法」の枠内へと取り込まれ、私の手を離れてしまったのです。何とも滑稽なことではありませんか。 価格がついた途端、少女たちには特異な背徳の香りが漂うようになります。正当な対価を支払うという行為は、まるで倫理の超越でございます。消費者は、少女たちの本質など理解しないまま、それが「商品として価値を持つ」ことに同意する。私は、この歪んだ関係性を見つめながら、ただただ自嘲することしかできません。私がこの背徳を作り出したのです。私が、この滑稽な舞台を整えてしまったのです。 私は作り手として、無償で少女たちを提供することが最も正しい道であると信じております。しかし、それは甘美な幻想に過ぎないのです。もし無償であれば、そこには背徳も発生しない。つまり、少女たちが商品と化し、背徳の影を宿すためには、私は自らを裏切らなければならないのです。私は、あまりに卑小で、愚劣な人間でございます。誠実さを売り渡し、自らを欺いてでも、資本主義様に跪くほかないのでございます。 市場へと放たれた少女たちは、私の魂ではなく、もはや単なる「商品」に成り果ててしまいます。価格が付与されることで、それは私のものではなく、買い手の所有物となるのです。何と浅ましく、何と滑稽なことでしょう。私はそれを「正当な関係」と呼ぶべきなのでしょうか。少女たちは、商品となり、人は消費者となり、互いに束縛される。その不自由さの中に快楽があるなど、どうにも信じがたいことでございます。 少女たちの市場化は、まるで政略結婚のようでございます。無償の少女たちが自由恋愛であるならば、市場に出た少女たちは、資本主義様の意向に従い、嫁がされる娘のようなもの。私は、愚かにもそれを見送る親のような心持ちでいるのです。誰かに買われるのを待ち、評価されるのを待ち、ただただ苦しみながら、身を縮めているのです。そして、いざ買われたとき、私は喜ぶべきなのか、それとも、また一つ自分を売り渡したと、嘆くべきなのか。私はただ、困惑するばかりでございます。 資本主義様、私のような人間が、貴方の広大な世界で抗うことなどできるはずもございません。私のような愚か者は、ただ貴方に従い、貴方の意志のままに踊る道化として生きるほかないのです。しかし、それでもなお問わずにはいられません。貴方の許しの中で、私はどこまで誠実でいられるのでしょうか。どこまで私の少女たちは、私のままでいられるのでしょうか。私は貴方の寛容のもとで、どこまで愚かしく、どこまで浅ましく、抗い続けることができるのでしょうか。 敬具

R-18 アダルト楽曲 能町りかこ 5th 『―体液―(こころの挿入歌5)』

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2025年2月10日公開

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拝啓 資本主義様

私は愚かで、惨めで、どうしようもない作詞家でございます。私のような者が、資本主義様に意見すること自体、分不相応であり、甚だしい僭越に思えてなりません。そもそも、このような矮小な存在の言葉など、資本主義様の耳には届かないでしょう。しかし、どうしても伝えずにはいられません。どうしようもなく浅ましく、醜いながらも、私の嘆きのようなものを聞いていただけませんでしょうか。

少女たちを生み出すという行為は、私のような卑しい人間には、あまりにも過ぎた営みでございます。少女たちとは、もっと高貴で、もっと誠実な方々の手によって紡がれるべきものでありましょう。それなのに私ごときが、言葉を並べ、旋律を紡ぐことを許されているとは、なんという皮肉でしょうか。しかし、そんなものは、資本主義様の前では何の意味も持たないのです。市場に晒され、価格という呪われた刻印を押されることで、私の少女たちは、もはや私の少女たちではなくなるのでございます。

少女たちが市場に現れる前、あの無償の漂流の時が、いかに清らかであったかと、今さらながら思い返します。無価値だからこそ、誰もがそれを自由に愛し、自由に忘れ去ることができたのです。しかし、私がそれを市場に投じたその瞬間、少女たちは「合法」の枠内へと取り込まれ、私の手を離れてしまったのです。何とも滑稽なことではありませんか。

価格がついた途端、少女たちには特異な背徳の香りが漂うようになります。正当な対価を支払うという行為は、まるで倫理の超越でございます。消費者は、少女たちの本質など理解しないまま、それが「商品として価値を持つ」ことに同意する。私は、この歪んだ関係性を見つめながら、ただただ自嘲することしかできません。私がこの背徳を作り出したのです。私が、この滑稽な舞台を整えてしまったのです。

私は作り手として、無償で少女たちを提供することが最も正しい道であると信じております。しかし、それは甘美な幻想に過ぎないのです。もし無償であれば、そこには背徳も発生しない。つまり、少女たちが商品と化し、背徳の影を宿すためには、私は自らを裏切らなければならないのです。私は、あまりに卑小で、愚劣な人間でございます。誠実さを売り渡し、自らを欺いてでも、資本主義様に跪くほかないのでございます。

市場へと放たれた少女たちは、私の魂ではなく、もはや単なる「商品」に成り果ててしまいます。価格が付与されることで、それは私のものではなく、買い手の所有物となるのです。何と浅ましく、何と滑稽なことでしょう。私はそれを「正当な関係」と呼ぶべきなのでしょうか。少女たちは、商品となり、人は消費者となり、互いに束縛される。その不自由さの中に快楽があるなど、どうにも信じがたいことでございます。

少女たちの市場化は、まるで政略結婚のようでございます。無償の少女たちが自由恋愛であるならば、市場に出た少女たちは、資本主義様の意向に従い、嫁がされる娘のようなもの。私は、愚かにもそれを見送る親のような心持ちでいるのです。誰かに買われるのを待ち、評価されるのを待ち、ただただ苦しみながら、身を縮めているのです。そして、いざ買われたとき、私は喜ぶべきなのか、それとも、また一つ自分を売り渡したと、嘆くべきなのか。私はただ、困惑するばかりでございます。

資本主義様、私のような人間が、貴方の広大な世界で抗うことなどできるはずもございません。私のような愚か者は、ただ貴方に従い、貴方の意志のままに踊る道化として生きるほかないのです。しかし、それでもなお問わずにはいられません。貴方の許しの中で、私はどこまで誠実でいられるのでしょうか。どこまで私の少女たちは、私のままでいられるのでしょうか。私は貴方の寛容のもとで、どこまで愚かしく、どこまで浅ましく、抗い続けることができるのでしょうか。

敬具